【鑑賞記録】たかが世界の終わり

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(画像は映画.comよりお借りしました)

 

怖いものをみた。

 

家族というのは不思議なものだ。一番近くて、一番遠い。一番わかっているはずなのに、一番わからない。人間と人間の関係を表す縮図だと思う。

 

主人公は自分の死を告げるため、12年ぶりに足を遠ざけていた実家へと戻る。

 

その実家の食卓の張り詰めたる空気たるや。

家族喧嘩をする家庭なら分かると思うけれど、一言発すれば、毛玉が転がるように誰かの怒りがふつふつと沸き出し、誰かが甲高い声を上げ、誰かが罵声に怯える悪循環が始まる。家族喧嘩に理由なんてない。ただ持て余した不機嫌な感情を、目の前の遠慮のいらない人間にぶつけているだけ。

 

主人公は家族が怖い。

自分が12年ぶりに家に帰ってきたのは、久しぶりに家族に会いたかったからなんかじゃない、何か理由があることくらい、家族みんながお見通しだ。そして家族なんか本心では気にも止めていなかったのに、毎年みんなの誕生日にはカードを送って、紙切れ一枚の愛情をかざして罪悪感から逃れていた自分に家族も気付いているはずだ。

自分の軽薄さを少しも漏らさまいとするように、映画の中では主人公はあまり台詞を発しない。

 

家族も12年ぶりに帰ってきた主人公が怖い。12年も帰ってこなかったくせに、なぜ突然帰ってきたのか?その理由を会話の節々から必死に探ろうとする。

 

 

家族なのに。会っていなくても、顔を知らなくても、それでも家族のはずなのに。

家族に対して怖いという感情を抱くということ、それほどまでに悲しいことはない。

私の中では家族は絶対的な愛の存在で、怒っても、憎んでも、その愛は消えることがないものだと思っていたから。たとえ12年姿をくらましても、私の家族は、帰ってきた私のことを心から抱きしめてくれると思っていたから。

でももしかしたらそうではないのかもしれない。

人間なんてみんな結局全てを分かち合うことはできないのだから、いくら血の繋がった存在とはいえ、12年も会わなければ相手に恐怖を抱くのかもしれない。ふと自分の家族のことも頭によぎって怖くなる。

 

 

クライマックスの家族喧嘩では、それぞれの感情が渦巻いて大爆発する。

息子を受け入れたい母、日常からの逃げ場と暖かい家族が欲しい妹、全てをめちゃくちゃにする兄、気づいていながら何も言わない義姉。そして結局家族のことなんて気にもせず、自分のことしか考えていなかったエゴを突きつけられる主人公。

 

主人公はきっと心のどこかで期待していたのだ。 自分の余命があとわずかであることを知れば、12年間の心の隙間が埋まることを。だけどそれは幻想だった。たった一つのエピソードくらいで、空白の12年が埋まるはずがないのだ。失った12年はどんなかたちでも取り戻すことはできない。

 

「次は大丈夫だから」そう言ったけれど、きっともう彼がこの家には戻らないことを、誰もがうっすらと気づいている。鳩時計の鳩も、部屋をバタバタと飛びまわり、時計の中には戻らないで床で息絶える。

 

 

この映画のタイトルは「it's only the end of the world」、邦題にして「たかが世界の終わり」。

キャッチコピーは、愛が終わることに比べたら、たかが世界の終わりなんて。

 

 

世界が終わっても、家族の時間は流れ続ける。みんな不器用で、ぎゃんぎゃん泣いて、怒鳴って、罵倒して、それでもみんなどこかで家族のことをどうしようもないくらい愛している。

愛なんて砂糖菓子みたいな甘っちょろい感情じゃない。

不器用に喧嘩して、傷つけて、そういうのも丸ごと含めて愛なのだ。きっと。

失った時間は戻ってこないし、相手のことなんて最後まで理解できない。葛藤だらけだけど、愛は確かにそこにある。家の床に横たわる鳩時計の鳥のように、死してなお、彼の魂は愛する家にあるのだ。本当にこの解釈でいいのか分からなかったけれど、きっとこれでよいのだと信じたい。

 

もしそういう解釈じゃないとしたら、あまりにも悲しい映画だから。

だからこそ、きっとどちらにも解釈できるこの題名をつけたんだと思う。

 

 

母親は主人公に言った。

「理解はできないけれど、愛している。この愛はだれにも奪えない」

 

この台詞がこの映画の全てなんじゃないかな。

 

(最後に・・・・結局よく分からなかったのが、お兄さんは本当は全部気づいていて、日曜日を死の宣告の日にしないために最後をめちゃくちゃにしたのか、それともただ不器用で自分の感情を家族にぶつけたのか。正解はない気がするけど、もう1回みたらわかるのかな。)