鑑賞記録 永い言い訳

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画像引用:http://eiga.com/movie/82616/

 

たぶんわたしはこの映画を理解するにはまだ遠いところにいるのだろうなと思った。大好きな映画だと思ったけれど、どうしてもまだ「人を亡くす」という感覚、「無関心になっても誰かと人生を共にする」という感覚がわからない。映画のレンタルが始まったら、もう一度観ると思うけど、それでもたぶんわたしはこの映画がまだよく分からないと思う。

 

分からないながらに、感じたことをぽつぽつと。

人は誰だって、自分が正しいと思いたいものだ。自分の選択、自分の価値観、自分の記憶。どんな人だって、自分が為すことを肯定してほしいと心のどこかで思っている。たとえそれが間違ったことであるとしても。

そんなときに生まれるのが「言い訳」だ。言い訳をすることで、自分を何とか肯定しようとする。もっともらしい言い訳をし、「もう以前の私とはすっかり変わったのです」というアピールをして、初めて周りからも自分からも、過去の過ちの清算と現在の良き自分の受容が行われる。

 

だけど、もし自分の過ちを赦してくれる人が消えてしまったら?

そのとき、人は過ちを犯した自分のことを赦せるのだろうか?

 

物語の終盤で「人生は他者である」と主人公は気づく。

まあでも普通に考えれば、人生は自分のものだし、自分を生きているのはまぎれもなく自分だ。そういう中で「人生は他者である」と思うことの意義とは、結局人間は誰かとの関わりなしには自分という人間を認識できないということなのだと思う。

 

たしかに人生は他者との関わりで形作られていくものだ。だけれど、結局いくら他者と関わったところで、自分で自分に向き合っていかなれば、それもまた「誰かに認められた、赦された」という言い訳の一部になってしまう。誰かが自分を「赦してくれる」からといって、自分の過ちと向き合ったことにはならない。誰かが自分を「認めてくれる」からといって、自分のことを認められるわけではない。

 

人生における「他者」には気をつける必要がある。それは自分を正しく見つめることにも必要な存在だし、自分から目をそらすのにも必要な存在だからだ。

 

きっと生きるということは自分と向き合うということなのだと思う。良いことにも悪いことにも。でも人間は弱いから、誰かが承認してくれないと、自分と向き合うことができないときがある。

きっと生きるということは他者と向き合うことなのだと思う。でも人間は弱いから、自分の正しさを他人にも求めて、関係を歪ませてしまうこともある。

 

だから人は言い訳をする。自分の行いや他者の行いを白か黒かですっぱり割り切れて、自分を認めたり、相手を赦したりできたら、本当は言い訳なんて必要ない。言い訳は、人間の弱さやひずみを覆っている。だけど、そういう言い訳をしながら、人はみんな自分と向き合い、相手と向き合っているのだと思う。

不恰好に失敗をたくさんしながら、自分を認めること、自分を赦すこと、相手を認めること、相手を赦すこと。そういう営みのもとに、人と人の関係が築かれて、人生がかたちづくられていくんじゃないだろうか。

 

考えているうちに何を書いてるのかさっぱりわからなくなってしまった笑 いつかもっと大きくなったら、この映画のことをもっとよく分かる気がする。