確かなこと

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いったい人の世で、確かなこと、とは何だろうか。(エウリピデスヘレネー」)

 

 

私は生粋のおじいちゃんっ子、おばあちゃんっ子だ。

特に祖父の影響は大きい。

ひょろひょろ内股で歩くのも、綺麗なものを眺めるのが好きなのも、気が付いたら歌を歌っているのも、年齢の割に妙にしぶい酒のつまみをぱくぱく食べるのも、すべて祖父の影響である。

後になって親族に聞いてみれば、どうやらお世辞にも良い夫でも、良い父でもなかったらしい祖父だが、私にとってはいつだって最高のおじいちゃんだった。

長期休暇に祖父母の家に行くときは浮き足立ち、帰るときはいつも号泣した。

小学生の時は、将来大きくなったら、岡山の大学に通って、祖父母の家に住むのだと信じていた。

 

そんな祖父が、数年前に認知症になった。

記憶違いが多くなり、車の運転ができなくなり、次第にぼうっと空を見つめる日が増えていった。

そして、半年前の8月。ついに私のことが分からなくなった。

 

あんなに私のことを可愛がって、いろんなところに連れて行ってくれたり、美味しいものを食べさせてくれたりした祖父は、もういない。

私の名前を伝えて「おじいちゃん。」と呼びかけても、ただニコニコと笑っているだけである。

彼の中から私は消えてしまった。

祖父にとって私が孫の「わたし」でなければ、目の前で微笑むこの老人は、いったい私の何なのだろう。

 

この年末、祖父母の家に足を運んだ。

祖父が寝る布団に近づくと、足元の柱が目に入った。

それは祖父が毎年つけていた「身長の柱」だった。

毎年孫4人の身長をこの柱に記録するのが習慣だったのだ。

私が3歳の頃から、今と同じ174cmの巨大サイズになるまで、柱には私の成長が刻まれている。

 

ふと、私の目盛りの始まりの日、平成8年2月9日の祖父を思った。

きっと祖父はその日、自分が健やかである限りは、孫の成長をこの目で見届け、記録し続けようと心に決めたのではないだろうか。

 

毎年欠かすことなく律儀に身長が記録された柱。

もしかすると誰かにとっては、縦長の木材に書かれた線と文字の羅列かもしれない。

だけど私にとっては、22年間の大切な記憶。

 

人の世に絶対的に確かなことなんて存在しない。

祖父が私を忘れてしまったように、記憶だって確かなものではないのだ。

でも私はこの柱を見る度に、祖父の中から「わたし」が消えてしまう、最後のその時まで、きっと祖父は私のことを心から愛していたに違いないと思う。

たとえ彼から記憶が失われても、肉体がなくなっても、彼の気持ちは私に生き続ける。

 

その実感は、私が私である限り、揺るぐことのない「確かなこと」だ。