【鑑賞記録】13 Reasons Why(13の理由)

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アメリカやカナダで話題になり、青少年に悪影響を与える恐れがあるとして視聴規制もされているこのドラマ。

とりあえずどんなものか見てみたくて、NETFLIXの無料体験に申し込む。

 

予想以上に暗かった。

アメリカンピーポーたちがこぞってこれを見ていると思うと、ちょっと変な気分になるくらい。(アメリカ人=明るいという私の思い込みもあるのかもしれない)

多感な中高生たちがこのドラマを見たら、たしかに精神衛生上よくないような気がする。

「自殺を美化している」とは思わないけど、きっとあるタイプの子たちは、ハンナに共感しすぎてしまって辛いだろう。

 

人が自ら死を選択するとき、私たちはその死に理由を求める。

なぜあの人は死んだのだろう。彼女の身には何が起こったのだろう、と。

だけどその理由が一言で説明できるようなものなら、何かを変えれば物事が改善できるようなそんなシンプルな問題なら、きっと人は死を選択しない。

一つの選択が導かれるまでには、数々の出来事が複雑に絡み合い、互いに影響し合っている。

 

 

真実は人間の数だけあるから、本当のことなんてきっと誰にもわからないのだ。

だけど私たちは一つの真実を求める。

 

 

真実と同様に、このドラマでのもう一つのテーマは「誰が悪か?」ということだ。

自殺した人=善、死においやった人=悪という二項対立では描かれない。

 

きっと作中のハンナの行動にイライラした人も少なくないはず。

たしかにハンナは13人一人ひとりの行いによって死に追い詰められたが、ハンナ自身の立ち振る舞いにも問題がなかった訳ではない。

ブライスはハンナに決定打を下したクズ野郎だけど、ジャスティンの面倒見が良いところなど、悪人ではない場面も描かれる。

 

ティーンエージャーの自殺というセンシティブなテーマにおいて、「真実」と「善悪」という私たちの主観の根本ともなるような部分にゆらぎをかけているところに、このドラマの魅力がある。

【鑑賞記録】たかが世界の終わり

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(画像は映画.comよりお借りしました)

 

怖いものをみた。

 

家族というのは不思議なものだ。一番近くて、一番遠い。一番わかっているはずなのに、一番わからない。人間と人間の関係を表す縮図だと思う。

 

主人公は自分の死を告げるため、12年ぶりに足を遠ざけていた実家へと戻る。

 

その実家の食卓の張り詰めたる空気たるや。

家族喧嘩をする家庭なら分かると思うけれど、一言発すれば、毛玉が転がるように誰かの怒りがふつふつと沸き出し、誰かが甲高い声を上げ、誰かが罵声に怯える悪循環が始まる。家族喧嘩に理由なんてない。ただ持て余した不機嫌な感情を、目の前の遠慮のいらない人間にぶつけているだけ。

 

主人公は家族が怖い。

自分が12年ぶりに家に帰ってきたのは、久しぶりに家族に会いたかったからなんかじゃない、何か理由があることくらい、家族みんながお見通しだ。そして家族なんか本心では気にも止めていなかったのに、毎年みんなの誕生日にはカードを送って、紙切れ一枚の愛情をかざして罪悪感から逃れていた自分に家族も気付いているはずだ。

自分の軽薄さを少しも漏らさまいとするように、映画の中では主人公はあまり台詞を発しない。

 

家族も12年ぶりに帰ってきた主人公が怖い。12年も帰ってこなかったくせに、なぜ突然帰ってきたのか?その理由を会話の節々から必死に探ろうとする。

 

 

家族なのに。会っていなくても、顔を知らなくても、それでも家族のはずなのに。

家族に対して怖いという感情を抱くということ、それほどまでに悲しいことはない。

私の中では家族は絶対的な愛の存在で、怒っても、憎んでも、その愛は消えることがないものだと思っていたから。たとえ12年姿をくらましても、私の家族は、帰ってきた私のことを心から抱きしめてくれると思っていたから。

でももしかしたらそうではないのかもしれない。

人間なんてみんな結局全てを分かち合うことはできないのだから、いくら血の繋がった存在とはいえ、12年も会わなければ相手に恐怖を抱くのかもしれない。ふと自分の家族のことも頭によぎって怖くなる。

 

 

クライマックスの家族喧嘩では、それぞれの感情が渦巻いて大爆発する。

息子を受け入れたい母、日常からの逃げ場と暖かい家族が欲しい妹、全てをめちゃくちゃにする兄、気づいていながら何も言わない義姉。そして結局家族のことなんて気にもせず、自分のことしか考えていなかったエゴを突きつけられる主人公。

 

主人公はきっと心のどこかで期待していたのだ。 自分の余命があとわずかであることを知れば、12年間の心の隙間が埋まることを。だけどそれは幻想だった。たった一つのエピソードくらいで、空白の12年が埋まるはずがないのだ。失った12年はどんなかたちでも取り戻すことはできない。

 

「次は大丈夫だから」そう言ったけれど、きっともう彼がこの家には戻らないことを、誰もがうっすらと気づいている。鳩時計の鳩も、部屋をバタバタと飛びまわり、時計の中には戻らないで床で息絶える。

 

 

この映画のタイトルは「it's only the end of the world」、邦題にして「たかが世界の終わり」。

キャッチコピーは、愛が終わることに比べたら、たかが世界の終わりなんて。

 

 

世界が終わっても、家族の時間は流れ続ける。みんな不器用で、ぎゃんぎゃん泣いて、怒鳴って、罵倒して、それでもみんなどこかで家族のことをどうしようもないくらい愛している。

愛なんて砂糖菓子みたいな甘っちょろい感情じゃない。

不器用に喧嘩して、傷つけて、そういうのも丸ごと含めて愛なのだ。きっと。

失った時間は戻ってこないし、相手のことなんて最後まで理解できない。葛藤だらけだけど、愛は確かにそこにある。家の床に横たわる鳩時計の鳥のように、死してなお、彼の魂は愛する家にあるのだ。本当にこの解釈でいいのか分からなかったけれど、きっとこれでよいのだと信じたい。

 

もしそういう解釈じゃないとしたら、あまりにも悲しい映画だから。

だからこそ、きっとどちらにも解釈できるこの題名をつけたんだと思う。

 

 

母親は主人公に言った。

「理解はできないけれど、愛している。この愛はだれにも奪えない」

 

この台詞がこの映画の全てなんじゃないかな。

 

(最後に・・・・結局よく分からなかったのが、お兄さんは本当は全部気づいていて、日曜日を死の宣告の日にしないために最後をめちゃくちゃにしたのか、それともただ不器用で自分の感情を家族にぶつけたのか。正解はない気がするけど、もう1回みたらわかるのかな。)

鑑賞記録 溺れるナイフ

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画像引用:http://eiga.com/movie/83278/

人生のどんな一瞬においても、追いつけないほどに眩くきらめく人がいる。いつもずっと先にいるその人は、もはや幻想なのに、どんなときもその幻想が自分を支え続けている。破裂しそうに熱を帯びて、触れれば砕け散ってしまいそうな繊細な恋。

 

そんな幸せで、不幸せな恋があるだろうか。

 

漫画のネタバレを読んだら、すごく切なくていいなあと思ったので、もしかすると原作のほうがいいパターンかもしれない笑 でも、映像の雰囲気が好きだったので、監督さんが気になるな。

読書記録 春、バーニズで

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画像引用:http://amzn.asia/1nyPdI2

バイト帰りに時間を持て余して、図書館をぶらぶらしていたら見つけた。どこかで聞いたことがある題名と思ったら、研究会の人が卒論で使用していた本だった。「怒り」の作者の人だ、と気づいた。

何てことない当たり前の時間でも、その時間が過去になってしまえばそれはいつかは「当たり前」ではなくなる。過去の「当たり前」と現在の「当たり前」にはいつだってゆるやかなずれがある。

過去にあの選択をしていたらこうであっただろうという仮想の自分と、今を生きている自分。こんな風に、わたしたちはみんな、気づかぬうちにふたつの時間を生きている。でもきっと現実ってそんなものなのよね。現実は選択の積み重ねでできてるんだから。

 

鑑賞記録 永い言い訳

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画像引用:http://eiga.com/movie/82616/

 

たぶんわたしはこの映画を理解するにはまだ遠いところにいるのだろうなと思った。大好きな映画だと思ったけれど、どうしてもまだ「人を亡くす」という感覚、「無関心になっても誰かと人生を共にする」という感覚がわからない。映画のレンタルが始まったら、もう一度観ると思うけど、それでもたぶんわたしはこの映画がまだよく分からないと思う。

 

分からないながらに、感じたことをぽつぽつと。

人は誰だって、自分が正しいと思いたいものだ。自分の選択、自分の価値観、自分の記憶。どんな人だって、自分が為すことを肯定してほしいと心のどこかで思っている。たとえそれが間違ったことであるとしても。

そんなときに生まれるのが「言い訳」だ。言い訳をすることで、自分を何とか肯定しようとする。もっともらしい言い訳をし、「もう以前の私とはすっかり変わったのです」というアピールをして、初めて周りからも自分からも、過去の過ちの清算と現在の良き自分の受容が行われる。

 

だけど、もし自分の過ちを赦してくれる人が消えてしまったら?

そのとき、人は過ちを犯した自分のことを赦せるのだろうか?

 

物語の終盤で「人生は他者である」と主人公は気づく。

まあでも普通に考えれば、人生は自分のものだし、自分を生きているのはまぎれもなく自分だ。そういう中で「人生は他者である」と思うことの意義とは、結局人間は誰かとの関わりなしには自分という人間を認識できないということなのだと思う。

 

たしかに人生は他者との関わりで形作られていくものだ。だけれど、結局いくら他者と関わったところで、自分で自分に向き合っていかなれば、それもまた「誰かに認められた、赦された」という言い訳の一部になってしまう。誰かが自分を「赦してくれる」からといって、自分の過ちと向き合ったことにはならない。誰かが自分を「認めてくれる」からといって、自分のことを認められるわけではない。

 

人生における「他者」には気をつける必要がある。それは自分を正しく見つめることにも必要な存在だし、自分から目をそらすのにも必要な存在だからだ。

 

きっと生きるということは自分と向き合うということなのだと思う。良いことにも悪いことにも。でも人間は弱いから、誰かが承認してくれないと、自分と向き合うことができないときがある。

きっと生きるということは他者と向き合うことなのだと思う。でも人間は弱いから、自分の正しさを他人にも求めて、関係を歪ませてしまうこともある。

 

だから人は言い訳をする。自分の行いや他者の行いを白か黒かですっぱり割り切れて、自分を認めたり、相手を赦したりできたら、本当は言い訳なんて必要ない。言い訳は、人間の弱さやひずみを覆っている。だけど、そういう言い訳をしながら、人はみんな自分と向き合い、相手と向き合っているのだと思う。

不恰好に失敗をたくさんしながら、自分を認めること、自分を赦すこと、相手を認めること、相手を赦すこと。そういう営みのもとに、人と人の関係が築かれて、人生がかたちづくられていくんじゃないだろうか。

 

考えているうちに何を書いてるのかさっぱりわからなくなってしまった笑 いつかもっと大きくなったら、この映画のことをもっとよく分かる気がする。

悩まずにはいられない人

「悩まずにはいられない人」(加藤諦三著)を読了。

 

著者は、くよくよと悩みつづる人の最たる例がうつ病患者であるとし、「注目してほしい、慰めてほしい、哀れんでほしい、優しくしてほしい」とつらい気持ちを訴えるのは、「もっと愛して」「もっとこちらを向いて」というメッセージだと述べる。

そしてその悩みの真の原因は「甘えたくても甘えられない心の葛藤である」と指摘している。

幼少期に虐げられた家庭環境で育ってきた彼らにとっては、悩みを解決するよりも、問題をいつまでも嘆いているほうがずっと楽なのだ。 

 

 

私は1年ほど前まで、自分が悩んでいる状態や不幸である状態に、もはやアイデンティティーすら覚えているどうしようもない人間だった。

詳細な状況は割愛するけれど、愛着不安の強い子供だったので、周囲に甘えたり弱音を吐いたりすることも少なかったように思う。

 

だから思春期に差し掛かったあたりから、自分の悩みや不幸せを解決し、満たしてくれる誰かや何かをずっと求めていた。

しかし思考を他人にアウトソーシングした結果、この1年で大変痛い目をみたので、ようやくこのままではまずいと思い立ったわけだ。

結局のところ、自分の人生をコントロールできるのは自分しかいないのだ。

そんな当たり前のことにやっと最近気づいた。

どんなに愛していても、親や恋人や友人が私を幸せにしてくれるわけではないし、逆に私の人生や人格をコントロールしようととする人は、本当の意味で私のことを愛しているわけでもない。

 

 

本著の終盤、著者はこのように語る。

 

"いつも嘆いている人は「欠けているものを埋めたい。幸せになりたい。」という。

うつ病者は「自分に欠けているものは幸福の本質である」という。

そう考えれば幸福になる努力をしないでいい。

もともと人間は不完全なものなのだ。欠けているものを補って、工夫していくことに生きる意味があるのだ。"

 

"人が幸せでないのは、「幸せになれない」からではない。

「幸せになろう」としていないからである。

口では「幸せになりたい」と言いながら、彼らは絶対に自分の不幸を手放そうとしない。"

  

はっとした。

不幸を手放そうとしない。その表現がぐさりときた。

不幸な記憶を手放せば、あの時の私の悲しみは消えてしまう。悲しみや不安に立ち向かうために、何日も何年もずっと折れそうな心で闘っていたあの日々を、なかったことにしてはならない。

いつもにこにこして、穏やかに見えるかもしれないけれど、その下にある悲しい記憶と葛藤を誰かに分かってほしいとずっとずっと思っていた。

だけど、だからこそ私は、「幸せ」になるために「不幸せ」の執着から逃れなくてはいけないのかもしれない。誰かの力を借りるのではなく、自分の力で。

 

 

私の好きなアニメ「物語シリーズ」のあるシーンで主人公がこんな台詞を言う。

 

「幸せを過大評価するな。あらゆる幸せはお前にとってちょうどいいんだ。確かに僕は今とても幸せだ。だからこそあえて言うぞ。こんなもんはな、誰もが持ってて当たり前のもんなんだよ!」

 

 

私はいま「幸せ」になりたいと強く思う。

その幸せは、昔思い描いていた遥か遠くにある桃源郷ではない。

 

自分自身で思考し、前に向かって行動することで、健やかにしなやかに生きていきたいと、強い実感を伴って思う。

 

 

何だかしめっぽい投稿になっちゃったけど、今日はこれでおしまい。

確かなこと

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いったい人の世で、確かなこと、とは何だろうか。(エウリピデスヘレネー」)

 

 

私は生粋のおじいちゃんっ子、おばあちゃんっ子だ。

特に祖父の影響は大きい。

ひょろひょろ内股で歩くのも、綺麗なものを眺めるのが好きなのも、気が付いたら歌を歌っているのも、年齢の割に妙にしぶい酒のつまみをぱくぱく食べるのも、すべて祖父の影響である。

後になって親族に聞いてみれば、どうやらお世辞にも良い夫でも、良い父でもなかったらしい祖父だが、私にとってはいつだって最高のおじいちゃんだった。

長期休暇に祖父母の家に行くときは浮き足立ち、帰るときはいつも号泣した。

小学生の時は、将来大きくなったら、岡山の大学に通って、祖父母の家に住むのだと信じていた。

 

そんな祖父が、数年前に認知症になった。

記憶違いが多くなり、車の運転ができなくなり、次第にぼうっと空を見つめる日が増えていった。

そして、半年前の8月。ついに私のことが分からなくなった。

 

あんなに私のことを可愛がって、いろんなところに連れて行ってくれたり、美味しいものを食べさせてくれたりした祖父は、もういない。

私の名前を伝えて「おじいちゃん。」と呼びかけても、ただニコニコと笑っているだけである。

彼の中から私は消えてしまった。

祖父にとって私が孫の「わたし」でなければ、目の前で微笑むこの老人は、いったい私の何なのだろう。

 

この年末、祖父母の家に足を運んだ。

祖父が寝る布団に近づくと、足元の柱が目に入った。

それは祖父が毎年つけていた「身長の柱」だった。

毎年孫4人の身長をこの柱に記録するのが習慣だったのだ。

私が3歳の頃から、今と同じ174cmの巨大サイズになるまで、柱には私の成長が刻まれている。

 

ふと、私の目盛りの始まりの日、平成8年2月9日の祖父を思った。

きっと祖父はその日、自分が健やかである限りは、孫の成長をこの目で見届け、記録し続けようと心に決めたのではないだろうか。

 

毎年欠かすことなく律儀に身長が記録された柱。

もしかすると誰かにとっては、縦長の木材に書かれた線と文字の羅列かもしれない。

だけど私にとっては、22年間の大切な記憶。

 

人の世に絶対的に確かなことなんて存在しない。

祖父が私を忘れてしまったように、記憶だって確かなものではないのだ。

でも私はこの柱を見る度に、祖父の中から「わたし」が消えてしまう、最後のその時まで、きっと祖父は私のことを心から愛していたに違いないと思う。

たとえ彼から記憶が失われても、肉体がなくなっても、彼の気持ちは私に生き続ける。

 

その実感は、私が私である限り、揺るぐことのない「確かなこと」だ。